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「行けるうちに行こう。」と思い、3月に妻と台湾(台北)に行って来ました。旅行をより楽しもうと、事前に台湾の歴史に関する本を2冊読みました。
台湾が歴史上の文献に現れたのは、1544年のポルトガル人の台湾発見が最初です。当時はマレーポリネシア系の先住民の多部族に分かれていました。豊臣秀吉が1593年に使者を台湾に派遣しましたが、その使者は秀吉の書簡を誰に渡すべきかわからなかったと言います。
ちなみに、シラヤ族は外来者や客人を「タイアン」とか「ターヤン」と言い、それを漢民族が「大宛」や「大冤」と呼び、明王朝になって「台湾」と言うようになりました。
その後交易ルートを確保するために進出して来たオランダは1622年に、台湾と大陸の間に位置する澎湖諸島からの撤退を条件に、明王朝から台湾の占領権を得ました。これは大変な好条件ですが、明王朝が台湾を自国の真の領土と見なしていなかった証左と言えます。
オランダの植民地支配は1661年に終わります。近松門左衛門作の「国姓爺合戦」で名高い鄭成功(母は日本人)が清との戦いに敗れ、台湾に移って来たのです。これが中国大陸から台湾への最初の集団移住(鄭成功の軍隊とその家族約3万人)でした。
中国内部の敵対勢力を鎮圧した清は、1683年に鄭氏政権を倒します。しかし、海中の孤島で海賊が多く、逃亡犯や脱走兵など無法者の巣窟だった台湾を、清は軍事的な要衝として領有はしても、消極的な経営しかしませんでした。
それもあって比較的容易に1895年に日本に割譲されました。日本は後藤新平長官の方針もあって、積極的にインフラの整備や教育制度の確立を行います。しかし、それらはあくまで日本のための植民地政策で、反逆者の鎮圧もしています。
1945年の日本の敗戦後に、毛沢東との戦いに敗れた蒋介石が、後に故宮博物院(写真)に収めた膨大な美術品とともに台湾に渡って来ます。今の中華民国は民主主義国家ですが、蒋介石の生前は独裁主義国家でした。1947年の二二八事件では、中国から来た外省人政権が、元の住民である本省人を1ヵ月で約2万8千人も殺害しました。これは当時の人口の200人に1人だったというから驚きです。
中華民国は、1988年に総統に就任した李登輝が民主主義国家にしたと言っていいでしょう。(ちなみに、李氏は京都大学で学び、倉敷中央病院に入院したこともあります。)
要は、オランダ、鄭政権、清、日本、蒋介石政権という外来政権による圧政にずっと苦しんだというのが台湾の歴史です。読んでいて息が詰まりそうでした。また、台湾はずっと「中国」だった訳ではないと私は理解しました。
しかしながら、歴史はさておき、食事は意外にあっさり味でおいしく、台北の街はきれいです。さらに台湾人は日本人に親切で、私は台湾をとても好きになりました。
3月15日の日本経済新聞に、ローソンの竹増貞信社長の記事がありました。三菱商事で畜産部に配属され、米国の豚肉加工子会社で現地従業員との意思疎通に苦闘しながらも、衛生管理や加工技術の向上に成功し、冷蔵や冷凍で鮮度の高い豚肉の輸入増加に貢献しました。
その後帰国しますが、辞令はまさかの広報部勤務でした。商社というところは営業が花形で、それ以外の部署は(大変失礼な言い方ですが)日が当たらないと言っていいでしょう。さらに、おおむね組織は縦割りなので、営業への復帰も期待できなかったと推察します。
「自分はもう営業に必要とされていないのか。」とショックを受け、初めの1年間は毎週末、東京湾に出かけて手こぎボートで浮かび、心を洗わないと出社できないほどだったと言います。
ところが、その広報部で大仕事に遭遇し、それを乗り越え、今があります。そういう人の言葉には重みがあります。「ローソン社長になっても喜怒哀楽の『怒』の感情が出てくる記事は3回読みます。目をそらさず、自らの常識に入り込まずに問題点を学ぶようにしています。」不遇と思われた時期があったからこそできる、のかもしれません。
日経リスキリングというサイトに、2020年に時価総額国内上位50社で最年少の取締役で話題になったリクルートHDの瀬名波文野取締役のインタビュー記事がありました。
精鋭が集う大手企業向けの営業部隊で入社直後に抜群の成績を上げ、経験もないまま志願した英国人材派遣会社の立て直しに苦労しながらも成功したキャリアの持ち主です。
私が注目したのは、仕事への動機づけです。同氏はOECD(経済協力開発機構)のリポートに「世界の約4割の人々は3ヶ月間収入がなければ貧困に陥ってしまう。」というデータを見つけます。仕事というテーマに特化したリクルートだからこそ、その種の社会のマイナスを解消する役割があると自覚したそうです。これが彼女のエネルギーだろうと推察します。
ところが、「もちろん、うまく行かないことの方が圧倒的に多いんです。家ではワーワー声を上げて泣くこともある。」と言います。でも、「最後はおいしいご飯を食べて、よく寝て、起きたら『さあ今日も頑張ろう』って。自分の機嫌ぐらい自分で取ることを大事にしています。」最後の一文くらいは見習おうと思います。
あおば税理士法人のホームページに、「お客様紹介」と「お客様の声」のコーナーがあります。その第4号を株式会社マスカット薬局さんにお願いしました。
同社の経営理念には、「健康、即ち『人の命』生命を大切にしていく」「温かい血の通った組織」「人間尊重の経営」という言葉があります。
また、5つのエンゲージメント(誓約、約束)の中には、「スタッフ全員が対話によって互いの価値を認め合い、心をひとつにします。」とあります。
理念すなわち理想とする信念に掲げるだけでなく、その理想に向けて実践されている所がとっても素晴らしいです。詳しくは私どものホームページから是非ご覧下さい。
(同社のホームページより)
高橋社長さんは私が属する岡山県中小企業家同友会の代表理事でもあり、そこでも「人間尊重」という言葉をよく話されます。今振り返ると、スタッフと自分との関係に悩んでいた以前の私は、それを繰り返し耳にすることで、心底に落ちたのだと思います。
ですから、私どもの事務所の5つの行動指針の最初に「私たちは(お客様ともスタッフとも)お互いの人間性を尊重します。」とあります。この行動指針は、私だけで決めたのではなく、昨年この「追伸」に書いた「みんなで全員の意見を肯定するカードワーク」によって作りました。だから毎朝みんなで唱和ができ、実践につなげられるのです。
マスカット薬局の高橋社長さんのおかげでもあります。
さて、1月23日の日経新聞のトップに「社員の声 聞こえてますか」と載りました。そこには「事業環境が激変する今、硬直した上意下達の組織は成長できない。やりがいを持って課題に挑む、社員一人ひとりの『個の力』」がかつてなく重要になっている。」とありました。月曜日の紙面ながらこういう記事がトップに掲げられたことに、私は時代の趨勢(すうせい)を強く感じました。
人間尊重あるいは人間性尊重は、あるべき理想だと私は思います。しかも、人口も労働力人口もどんどん減少している今の時代にあって、その激変に対応する現実的な思考でもあります。きれいごとではありません。
ここ数年「求人しても人が来ん。」と、業種を問わず多くのお客様が口にされます。そして、そんな声が年々増えているような気がします。実際に日銀の短観によると、全規模全産業の雇用人員判断DI(「過剰」と答えた企業の割合から「不足」と答えた企業の割合を引いた値)は昨年12月時点でマイナス31と、近年では最も深刻だった2018~2019年頃の水準に接近しています。(日経新聞1月9日)
私は数年前から「人手不足で会社が続けられなくならないか。」と心配していましたが、それがどうやら現実になりつつあります。帝国データバンクによると、2022年は人手不足が原因の倒産が前年比で26%も増え140件ありました。人手不足による倒産の増加は3年ぶりで、倒産件数全体の増加率(6%)よりも大きいです。(日経新聞1月13日)
言うまでもなく人口減少と高齢化が進んでいます。当然ながら労働力人口はますます減っていきます。私たち中堅中小企業が生き残っていくためには、人材確保が不可欠です。求人ルートが「ハローワークだけ」では採用は難しいと私は思います。お金をかければいいとも言えませんが、それなりに求人費用、と言うより人材への投資にお金は要るように思えます。
しかし、それ以上に大切なのは「会社や職場の魅力づくり」ではないでしょうか。
さて、1月24日にポンペオ前米国務長官の回顧録が発売されました。1月28日の日経新聞に、同氏が米中央情報局(CIA)長官だった2018年3月に極秘で訪れた北朝鮮で会談した金正恩(キム・ジョンウン)総書記とのやり取りが載っていました。以下は引用です。
ポンペオ氏は2018年3月30日に米国を出発し、北朝鮮の首都平壌を訪問した。金正恩氏は会談で「あなたが現れると思っていなかった。あなたが私を殺そうとしていたのは知っている。」と語りかけた。ポンペオ氏は「まだあなたを殺そうとしている。」と応じ、冗談めかした応酬があった。
中国を巡るやりとりで、ポンペオ氏は「中国は一貫して米国に対し、あなたは米軍が韓国から撤退するのを望んでいると言っている。」と伝えた。すると、金正恩氏はテーブルをたたき大喜びした様子で「中国人は嘘つきだ。」と叫んだという。
中国への根深い不信感をあらわにした金正恩氏の言動は、中国の影響力が強くなりすぎる事態は望ましくなく、バランスを取るには米軍の存在が有用だとする現状認識を映す。
引用を終わります。きわどい冗談に驚きます。また、バランスは確かに重要だと思いました。ミサイル発射や拉致問題で悩ましい隣国ですが、多様性のある対応が要るようです。
城山三郎の「男子の本懐」を読みました。主人公は浜口雄幸(おさち)と井上準之助です。写真は国立国会図書館のサイトからのもので、上が浜口総理大臣、下が井上大蔵大臣です。二人は昭和初期に、金輸出の解禁すなわち金本位制への復帰に取り組みました。
第一次大戦下でやむを得ず金本位制を中止していた世界の主要国は、大戦の終結とともにこの異常な措置を解除しました。他方で日本は金解禁の好機を逸し、そのため円の為替相場が動揺し、慢性的な通貨不足に悩まされていました。この金解禁は歴代内閣の最重要課題だったのです。
ところが、これを実施するには前もって金準備を増やし、強力な緊縮財政により国内物価を引き下げる必要がありました。軍事費削減、行政改革、予想される不景気に反対する軍部、官僚、財界の強い反発が想定されました。にもかかわらず、国際競争力をつけ財政基盤を固めるため、激しい抵抗に臆することなく不退転の決意でこの難関に挑んだのが浜口と井上のコンビでした。
二人は性格的には正反対でした。城山氏は「静の浜口、動の井上」と称しています。浜口は総理就任時の組閣で、特別親しくもなく政治的にも距離があった井上に大蔵大臣就任を請いました。意外に感じた井上も浜口の熱意に押され、金解禁に向けてタッグを組みます。二人とも人の好き嫌いを超越していたのです。
他方、二人に共通していたのは「強烈な左遷時代があった。」ということです。その不遇に二人とも腐らず、浜口は目前の塩業の再編という地味な仕事に粘り強く取り組み、井上は何もすることがないニューヨークでひたすら勉学に励みます。
二人の並々ならぬ努力をここに要約するなど私には不可能ですが、読みながら「今の政治家と違い過ぎる。」と痛切に感じました。アベノミクス以来の積極財政と異常な金融緩和が、当時の状況と似ているように思えてなりません。国民に不人気であっても、腹を据えてやるべき事をやる政治家をわれわれは見出すことはできないのでしょうか。
もう一つの二人の共通点は、二人とも最後は凶弾に倒れたということです。東京の青山墓地には二人の墓が並んで立っているそうです。一度墓参したいと思った次第です。
静岡県は全国一二のわさび生産量を誇り、世界農業遺産に認定されています。その中でも伊豆は有数の産地です。伊豆市内の山間部に10ヵ所以上あるわさび産地では300軒ほどがわさびを栽培しています。静岡にいる息子一家に会う前に家内と伊豆に行き、「わさびの大見屋」を訪ねました。こちらは代々のわさび農家で、16代目の現当主が加工販売店と石庭わさび園を併設しています。
伊豆市のわさび田はほとんどが畳石式です。下層から上層に向けて大中小の石を順に積み上げ、表層部に砂を敷く複層構造です。伊豆は半島ながら山は深く、わさび田近くの天城峠は標高834㍍あり、最高峰の万三郎岳は1,406㍍あります。その天城連山が生む豊富な湧き水をかけ流すことで不純物のろ過や水温の安定、栄養分や酸素の供給を同時に行えます。実際に見たわさび田はとっても美しいものでした。
大見屋ではわさび漬け手造り体験ができます。採れたてのわさびをみじん切りにして、酒粕に混ぜ込みました。帰宅後に食べた自分たち手造りのわさび漬けの味は格別でした。
わさび漬け造りの後には、わさびの茎入りバニラアイスを食べました。その場でおろしたわさびを上に乗せてくれます。これが案外美味しかったです。ちなみに、あのタモリ氏は少し溶かしたアイスにわさびを混ぜ込んで食べるのが大好きだそうです。(これも試してみましたが、わさびをたくさん入れても美味しいです。)
翌日には三島近くの「伊豆わさびミュージアム」へ行きました。以下はそこで仕入れた豆知識です。
そもそもわさびは野生の植物で、その栽培に初めて成功したのは、静岡市の北方の有東木(うとうぎ)の村人でした。そのわさびを徳川家康に献上したところ、家康は「天下の珍味」と絶賛し、その葉が徳川家の家紋の葵に似ていたこともあって、栽培法などを領外に持ち出すことを禁止しました。その後の江戸時代中期、伊豆から有東木に椎茸栽培の技術指導に来ていた男がいました。伊豆への帰郷時に村の娘が、持ち出しが禁じられていたわさびの苗を、お礼としてひそかに男の弁当箱に入れました。それから伊豆でわさび栽培が始まったのです。私の想像ですが、娘はその男に恋心を抱いていたのではないでしょうか。辛いわさびに甘酸っぱい歴史があるのかもしれません。
以前お話ししたように、4月から毎月1回(2日)関西学院大学の「税理士のための会計講座」に通いましたが、この10月で無事修了しました。今回はそこでの学びから……
複式簿記は13世紀のイタリアで始まりました。当時の帳簿が博物館にあり、その写真を見ると、表紙に(英語にすれば)「In Name of the GOD」(神の名の下に)と書かれています。
当時は、記帳を始める前にその帳簿を教会に持参し、「この帳簿に真実を記載することを神に誓います。」と宣誓し、牧師がその帳簿に証明印を押したそうです。
記帳とはそれほどに神聖な(まじめなダジャレながら真正な)ものだったのです。今年から皆様方には、電子帳簿保存法による電子データの電子保存をご指導申し上げています。来年10月からは消費税の日本型インボイス制度がスタートします。もしも、ご面倒と感じられたら、「昔のイタリア人は『神の名の下に』とやったんだ。」と思い出していただければ幸いです。
そもそもの帳簿の起源には、証拠力の確保や円滑な事業承継がありました。売買の一つ一つの取引を記録することによってその証拠力を確保し、自分が請求したお金の回収と、他の商人からの過大な請求を防止したりしたのです。また、自分が亡き後の家族や子孫に「誰から仕入れ、誰に売っていたか」を伝えることによって、商売が円滑に続くようにしたのです。
複式簿記と言いますが、経済取引をするとお金が二つ動くから「複式」とあるのです。掛けの売上が起きると、売上高が発生し売掛金という債権が増えます。売掛金を現金で回収すれば、売掛金が減って現金が増えます。その現金を銀行に預けると、現金が減って預金が増えます。ですから「複式」の「式」に人工的な意味はなく、自然現象を捉えているのが本当なのです。「複式」という言葉が難しいという印象を与えすぎているような気が私はしています。
自然現象の記録なので、江戸時代の日本にも複式簿記はありました。特に近江(今の滋賀県)では盛んに用いられていました。イタリアでも近江でも、記帳していた商人が記帳していなかった商人より、長年にわたり繁栄した事実があります。近江商人という言葉はあっても、残念ながら備前商人という言葉が残っていないのは、帳簿の差なのかもしれません。ちなみに、近江商人にルーツを持つ企業としては、髙島屋、西武グループ、伊藤忠商事、丸紅、ヤンマー、東洋紡、日本生命、武田薬品工業などがあります。
私どものスタッフが、日々の正確な記帳をお願いしているのも、皆様方の経営が継続し、発展されることを祈念しているからこそです。
円安が進んでいます。一橋大学の野口悠紀雄名誉教授は「自国の通貨が安くなることが、国にとって利益であるはずがありません。」(2022.10.02 朝日新聞)と話し、アベノミクスのもとで進んできたこれまでの円安を「麻薬」とまで言い切っています。
目の前のことを考えても、輸入品の価格上昇による物価高につながるので、皆さまの企業経営や家計に及ぼす悪影響を私は心配しています。民間企業に低金利はありがたいですが、仕入価格の上昇の方がお客様企業には厳しいのではないかと私は思量します。
政府は円買い介入を実施しましたが、円買いには外貨準備高までという限界があります。また、日銀が国債を買いながら財務省が円を買う介入をするのは、日銀が市場に円を供給しながら財務省が市場から円を吸い上げるということです。矛盾しています。
私は2022.8.19の日経新聞「通貨の番人がミスター円安では…」がとても気になりました。以下は散文的な引用で、( )内は私のコメントです。
「金利をちょこっと上げたら、円安が止まるとは到底考えられない。」と円安を放置する。そんな黒田総裁の姿勢が円安を加速させた。(これは9月末現在まで続いています。)
大量の国債購入で、日銀が国債の過半を保有する異常事態である。日銀の財政ファイナンスが財政規律を緩ませる大きな要因になっている。
「日銀は政府の子会社」と安倍元首相に言われても反論できない。(鈴木財務相はこれを否定し、「永続的に日銀が国債を買い入れる前提に立った財政運営は適切とは考えていない。」とも話しました。)民主国家の基本である中央銀行の独立性はどこに行ったか。(日銀は日本政策金融公庫のような政府系金融機関ではないはずです。)
物価の番人である中央銀行総裁が「ミスター円安」では日本の悲劇は続く。
記事の引用を終わります。国内景気が良くならないから低金利政策続行ということですが、経済対策は「子会社」ではなく「親会社」の政府がすべきことです。それも小手先の対策ではなく、日本経済の基礎体力を上げる政策が強く望まれます。
なお、よく言われる「黒田総裁の任期中は金融緩和が続く。」という表現には、私は違和感を覚えます。金融政策は日本経済の動向に即して決定されるべきです。一総裁の任期満了というタイミングと金融政策変更のタイミングはまったく関係ありません。黒田総裁のプライドが私たち国民の生活にマイナスになるようなことはあってはならないです。
宮城の女川で東日本大震災に被災し大変な苦労をした友人を、私は5年前に亡くしました。そのことを2017年の10月号の追伸に書きました。
そんな私にとって、夏の高校野球選手権で仙台育英高校が東北勢発の優勝を成し遂げたことは、言葉に表せないくらい嬉しかったです。「あいつが生きていたら喜んだだろうな。」と切に思います。
いろんな所で言われていますが、須江航(わたる)監督の優勝インタビューは素晴らしかったです。開口一番「宮城の皆さん、東北の皆さん、おめでとうございます!」でした。「ありがとうございます。」でもいいのですが、自分たちのことより真っ先に周囲の人、宮城の人、東北の人です。
次に「百年開かなかった扉が開いたので、多くの人の顔が浮かびました。」です。ここでも須江監督の思いは他者にあるのです。この言葉を聞いて私は、まず亡くなった友人の顔、その次に1995年まで仙台育英を率い強豪校にした竹田元監督の姿を思い出しました。「優勝旗の白河の関越え」を誰よりも熱望した人ではなかったかと思います。
強力な投手陣5人を擁しての優勝だったとの問いかけには、「みんなでつないできて、つないできて、最後に投げた高橋も、今日投げなかった3人のピッチャーも、スタンドにいる控えのピッチャーも、みんながつないだ継投だと思います。」と話しました。スタンドで応援していた控えの投手達は涙が止まらなかっただろうと想像します。
須江監督の思いは球児だけに止まりません。コロナ禍で入学式、運動会、修学旅行、卒業式などなどに制限がかかっていることについて「青春って、すごく密なので」と思いやり、そんな制限で「どこかでいつも止まってしまうかもしれない苦しい中で、でも本当に諦めないでやってくれたこと、でもそれをさせてくれたのは僕たちだけじゃなくて、全国の高校生のみんなが本当によくやってくれて……」とたたえました。
最後には下関国際や大阪桐蔭の名前をあげ、続けて「本当にすべての高校生の努力のたまものが、ただただ最後、僕たちがここに立ったと言うだけなので、ぜひ全国の高校生に拍手してもらえたらなと思います。」と締めくくりました。全国の高校球児が涙したのではないでしょうか。
コロナ禍でますます実感しづらくなってはいますが、いろんな人との関わりの中で私たちは生きていることを深く再認識させてくれました。
今月号に「続く原材料価格の高騰!どうする値上げ・価格の見直し」とあります。お考えの際には、FX2シリーズの限界利益を確認していただきたいです。参考にならない場合もあるかもしれませんが、何らかのヒントがあるのではないかと思っています。
さて、私と同じTKC会員で、渡辺忠という熱血漢の税理士が埼玉にいます。その彼が講演で「渡辺家の家訓に『一日一回空を見ろ。』というのがあります。」と話したことを、10年以上たった今でも覚えています。彼はその家訓を「目先のことに追われず、心に余裕を持たせることが大切」という趣旨で話していたと記憶しています。
この話が自分の心中に残ったので、私はほぼ毎日一回は空を眺めています。決して彼への義理立てではなく、やってみると何となく気持ちが落ち着くので、今では習慣になってしまいました。
また、ウチの事務所のOGが在職中の日報に「空は一番身近な大自然だと思います。」と書いてくれたことがあります。北海道に行こうが、アラスカに行こうが、確かに空が一番の大自然です。ただし、宇宙を感じられる星空は別格です。
そして、いつだったかの新聞で記者が「四季の中で夏の空が一番美しい。」と書いていました。よく愛でられるのは秋の空ですが、確かに夏の空の方がきれいだと私も思います。ちなみに、この駄文を書いている合間に、事務所の窓から撮ったのが上の写真です。
夏空を眺めていて、思い出しました。私の両親は共働きだったので、子どもの頃の夏休みには父母の実家によく預けられていました。父の実家は松江市内にあり、すぐ目の前にある松江城の石垣に登ったり、蝉取りをして遊んでいました。しかし、より長くいたのは島根半島の漁村にある母の実家の方です。母は9人の兄弟姉妹だったので、村におじおばやいとこが多くいたこともありますが、海水のきれいな日本海で毎日でも泳げるのが一番の魅力でした。
泳ぐだけでなく、砂浜や磯でも遊びました。遊び疲れると仰向けになって海にプカプカ浮かび、海水を介して蝉の声を聞きつつ、青い青い空をぼうっと眺めていました。だから、夏空が好きなのかもしれません。子どもの頃の記憶は長く残るような気がします。
孫が小学生位になったら、きれいな海で一緒にプカプカ浮かびたいと思っています。
TKCの研修にて、中央大学法科大学院教授で森・濱田松本法律事務所の弁護士でもある野村修也氏(某テレビ番組でコメンテーターも……)の講演を聴きました。
言うまでもなくSDGs(持続可能な開発目標)は、2015年9月の国連サミットで加盟国の全会一致で採択された、2030年までに持続可能でよりよい世界を目指す国際目標です。
私はSDGsを環境や文明を守るための義務ととらえ、企業経営にとっては社会的費用だと考えていました。
しかし、野村氏によると真逆です。SDGsはビジネスの新たな大市場です。
このことを最初に指摘したのが、「競争の戦略」で高名なマイケル・E・ポーター教授とマーク・R・クラマー氏です。収益性が高く環境などの社会的課題への貢献度が低い領域がこれまでの既存の市場、収益性が低く社会的課題への貢献度が高い領域にあるのが慈善事業です。この二つの領域しかないと私は思っていました。ところが、2011年に両氏は「収益性が高く社会的課題への貢献度も高い領域がある。」と論文で提唱し、その価値観を「共通価値(Creating Sheared Value)と呼びました。言うなれば、社会のニーズや問題に取り組むことで、社会的価値を創造し、同時に経済的価値を創造するというアプローチです。
ESG投資という考え方もずいぶん広まっています。これは2006年に国連のアナン事務総長が機関投資家に提唱した責任投資原則で、従来の財務情報だけでなく、環境(E)と社会(S)と企業統治(G)も考慮して投資を行うというものです。
たとえば、子ども食堂は子どもの貧困と食品ロスという二つの社会的課題の解消に取り組んでいますが、ESG投資を受けて、海外の極貧層を救い、しかも収益を上げることが可能になるかもしれません。
SDGsは義務ではなく機会です。野村氏は「コロナ禍で更に進む人口減少、巨額の財政赤字、子どもの貧困など多くの社会的課題を抱える日本において、社会的課題の解決がビジネスを生むことを中小企業経営者にも知ってほしい。」と結ばれました。われわれ中小企業は微力ですが、決して無力ではありません。
TKC会員を対象にした「税理士のための会計講座」が関西学院大学にあります。大学では会計学を専攻し、職業会計人になって35年ですが、現代の会計学を学び直したくて4月から10月まで毎月1回、金曜日と土曜日の各5時間の授業を受けています。
とっても新鮮な気分ですが、毎回のレポートを書くのに(ダジャレながら)汗をかいています。授業の後は頭の中がパンパンになるので、翌日以降にレポートを書こうと思っても書ける気がしません。ですから、金曜日の晩はビジネスホテルで、土曜日の夕方は駅のホームと列車の中でパソコンに駄文を打ち込んでいます。しかし、苦心しつつ楽しくもあり、書き終えた後のビールの味は格別です。
5月には会計とやや離れ「金融システムの動向」というテーマで、寺地孝之教授の授業を受けました。大学教授の枠からはみ出て、複数の会社の社外役員もされていて、経済のダイナミズムをいきいきとお話し下さいました。
寺地教授が一番強調されていたのは、「歴史を学び、大局観で将来を洞察し、変化を読み取る。そして自己変革をする。」ということです。
歴史観、大局観の事例として取り上げられたのが、2021年3月31日の日本経済新聞「パクスなき世界」です。その記事ではまず、1919年のスペイン風邪の大流行、1929年からの世界大恐慌後に格差拡大と新興国の台頭があり、それが1939年からの第二次世界大戦につながったという歴史を振り返っていました。次に、その当時と2021年の状況が酷似していることを示し、以下のように危機の予兆を暗示していました。
「歴史はしばしば韻を踏む。コロナ禍は人々に危機を実感させ、歴史的にみて不安定な時期に足を踏み入れたと多くの人が自覚するようになった。分断の力学が強まる世界で、新たな秩序を見いだすことは困難な作業だが、すべては足元に表れた危機の予兆を直視することから始まる。現代に生きる私たちは、歴史という舞台の観客ではない。」
この記事は私も読んだ記憶がありましたが、寺地教授のお話を聴いて、自分の未熟さにハッとしました。知識があっても、それを現実世界に活かさなければ何にもなりません。ウクライナが平和になるよう祈るばかりです。